今回はコロンビアのメデジンです。
コロンビアでもっとも危険なスラムがあると言われたコムナ13へも行って来ました。
30ペソ=約1円
コロンビアのメデジン
まずはカルタヘナのラファエルヌニェス空港まで移動。
ローカルのバスを使うのが最も安いがどこで乗車ができて、いつ来るのかが全くわからないのでタクシーを利用することにした。
それと旅も終わりに近づくとだんだんと疲れが溜まってきて、金銭感覚が緩む傾向があるようだ。
値段は行きと同じく固定の15000ペソ(500円くらい)だった。
カルタヘナからメデジンへはLATAN航空で53USドル。
また直前に購入をしたので少し高かったかなと思われる。
カルタヘナのラファエルヌニェス空港は緑が多く南国のリラックスした雰囲気があって好きだった。
メデジンのホセマリアコルドバ空港から市内のサンディエゴまで空港バスで行くことができる。
チケットは車内で購入でき、直接ドライバーに払った。
最後に乗車したせいか、ドライバー席と助手席の間にある隙間にクッションを置かれ、そこに後ろ向きに座ることに。
サンディエゴでバスを降りるとすぐ近くに大きなショッピングモールがある。
昼食をとるため寄ってみたが、とてもモダンでヨーロッパのものと大差ない感じがした。
ここでも同じくスープとメインディッシュとジュースのセットメニュー。
サンディエゴからはメトロA線のExposicionesまで歩いていける。
メデジンには2つのメトロ線があり、南北に行き交うAライン(青)とSan Antonio駅から西側に伸びるBライン(オレンジ)とがある。
新しいためかモダンで、乗り降りも分かりやすくとても利用しやすい。
一回の乗車運賃は2550ペソ(カードなし)で、駅の窓口で購入可能。
始発駅ではきっちりと列を作って並んでいた。
車内もとても綺麗で日本とさほど変わりがない感じ。
しかし、広告が無いためスッキリとしている。
ホステルにチェックインをして少し休むと大雨の影響か停電となった。
この日の夜は、ローカルと交流をしようと英語とスペイン語の語学交流イベントに参加をする予定になっていた。
泊まっているホステルから最寄りのEstadioのメトロ駅までは歩いて600mくらいだった。
しかし、街灯も全て消えていた。
スタッフがどこに行くのか訪ねてきた。
メトロまで歩いて行くというと、ホームレスなどがいるから危ないからやめておけと。
周りが学校や競技場などが多く、日が暮れてからは人が全くいなくなるためとのこと。
バイクタクシーを呼ぶと言ってくれたので、お願いをした。
まだこの街に着いたばかりなのでローカルの言うことに従おうと。
イベントはメトロのPoblado駅から東へ15分くらい歩いていけるところにあるバーで開催された。
このエリアはホステル、レストラン、バーなどが密集していて外国人も多く、夜でも安全なエリアとホステルのスタッフも言っていたし、自分も歩いてみてそう感じた。
このあたりのホステルに泊まればよかったなと少し後悔し、翌日はここに宿泊をした。
色々あって開始時間を過ぎて到着したため、すでにイベントは始まっていた。
主催者も言っていたが予想以上に人が集まり、多分50人以上はいたと思う。
パッとみた感じ、外国人の方がローカルよりも多いかなと思われた。
スペイン語は話せないので、英語のみで会話に入ろうとする。
ローカルで日本に興味があるという人と話した。
日本は時間にすごく厳しいところがあると、だから自分も日本に行きたいと。
なぜなら自分はそうではないため、日本に住んだらそれを変えられると思っているとのこと。。。
あまり内容の濃い話とはならずそのまま2時間経過した。
一応終了時間となるとローカルは早々と帰ってしまったため、外国人が残り普通に会話をすることに。
正直あまり楽しめなかったので、停電のことも気になるのでホステルへ戻ることに。
ホステルへの最寄り駅がEstadioとSuramericanaの二つあって来た時とは別のSuramericana駅を利用することにした。
そちらは住居のある通りが多いため、安全かなと思ったため。
22時くらいになっていたので、人通りは少し減っていたが、女性でも一人で歩いている人がいたので大丈夫かなと思い歩き出す。
エリア停電も解消されていて、全く問題なく帰ることができた。
メデジンのスラム街コムナ13へ
翌日は、Comuna13というスラム街のウォーキングツアーに参加をすることにしていた。
無料だが最後にチップを払うというものだが、事前に予約が必要だった。
ちなみにこの場所に行くのがメデジンで一番したいことだった。
メデジンの都市は中心部が低地で、周りが高台になっている構造。
中心部から外れれば外れるほど低所得者が住むエリアとなり、一般的に治安も悪くなっていく。
そして交通網が発達しておらず、生活者も大変な思いをしていた。
それを改善する試みが政府により行われ、ケーブルカーが5線(もう1線工事中)、1つのエリアにエスカレーターが設置された。
その後、市民の心理にも変化が生まれ治安もだいぶ改善されたとのこと。
ウォーキングツアーはSan Javierメトロの駅前で集合した。
いくつかのツアーがあって、さらに英語のグループとスペイン語のグループがあった。
時間になっても全ての人がそろっていなかったので、カフェで時間でも潰して来てと言われた。
すぐ近くにあったカフェで、紅茶を頼もうとするがなかなか意思疎通ができない。
それを見ていた男性がヘルプをしてくれた。
どうやらスペイン語のグループのツアーに参加をするとのこと。
この男性とは後日ばったりと会うことに。(次回の記事にて!)
皆集まってから、自分で運賃を払ってローカルのバスに乗り坂を登って行く。
矢印のところでバスを降り、その先は歩いて行く。
Comuna13はもともとボゴタで一番治安の悪いエリアと言われていた。
ちなみにメデジンには16のComunaがあり、PobladoはComuna14。
Comuna13にはケーブルカーはなかったので、6基のエレベーターを設置することが提案された。
しかし、始めはローカルの反対も多々あったとのこと。
いざ設置されると彼らも恩恵を受け、またそれを誇り(Proud)に思えるようになったとのこと。
さらにこのエリアではアート関連のコミュニティーが盛んで、街のいたるところにグラフィティーを見ることができる。
観光客が来るようになったことで、アートショップやカフェなどがいくつか並んでいた。
ツアーではここで生まれ育ったガイドが、過去の抗争や歴史的背景なども教えてくれた。
ガイドからはそれぞれのグラフィティーが描かれたコンセプトやアーティストについてなど興味深かった。
また、地元で有名なアイス屋で無料で食させてくれたし、各質問にも答えてくれた。
地元のダンサーのパフォーマンスも鑑賞した。
ガイドが言っていたことだが、逆効果も少しはあるという。
若者が観光客相手に何かをした方がお金になることを学んでしまい、学校に行かなくなる人が出てきてしまったとのこと。
グラフィティーはどれもクオリティーが高く関心した。
クリントン元米大統領が訪れた時の写真も見せてくれた。
エスカレーターは6基あり、一つ一つは短かかった。
この写真内では4基があるのが確認できる。
また、右側にアートショップがあり、その隣にはカフェがある。
良い点はその乗り換え場所にお店が出せるところだろう。
一つの長いエスカレーターではそうはいかないし、メンテナンスも大変になることが予想される。
エスカレーターとは別のプロジェクトとして、アクセスがしやすいように新たに道路の構築が行われていた。
仕事が作られることは地域の活性化にもなるしとても良いことだと思った。
ツアー中に安全なエリアだと感じることができた。
ということでツアー終了後に、一人で1時間くらい歩いてみた。
ツアー終了は最後のエスカレーターのあるポイントだったが、もっと高いところに歩いて行けたので登ってみた。
人々は暖かく、Holaと声をかけると、皆笑顔で返してくれた。
20年くらい前は、ここが世界で2番目に危険なエリアだったという事実が本当に嘘のように感じられる。
多くの家の屋根の上には、屋根が飛ばされないように石やレンガを載せていた。
電線が走っているので電気が通っているのがわかる。
路地は細く入り組んでいるところが多い。
日中だったせいか子供たちを良く見かけた。
世界共通でスマホは手放せない様子。
カメラを片手に歩きながら写真を撮っていると、一人の男性に家に来ないかと誘われた。
まともそうな人に見えたので行くことにした。
家の手前に椅子を置かれたのでそこに座って、英語は全く通じないので片言のスペイン語で話を始めた。
何か飲むかと聞かれたので、水をお願いすると茶碗に水を入れて持ってきてくれた。
飲んでみたが全く問題はなかった。
その男性のお母さんのような人も隣で聞いていた。
平屋であまり大きそうな家ではなかったが、20人で住んでいるとのこと。
家の中では、女性が床清掃をしていたようで、モップを持って外に出てきた。
日本から来たというと、ぜひ行ってみたいと目を輝かせていた。
男性曰く、彼女はシングルだからと笑っていた。
小さな子供もいて、勉強をするためにお金を恵んでくれないかと言われた。
少額ながらあげるととても喜んでくれた。
家族構成が全くわからないが、人種が様々だったので複数の家族が一緒に住んでいると思われた。
30分ほど有意義な時間を過ごして、最後にトイレを使わせてもらうために家に入ったが、とても整頓されていて室内もトイレも綺麗だった。
お金を恵んでもらうために呼ばれたのかもしれないが、純粋に暖かく良い人たちだったと感じた。
コムナ13の歴史的背景
もともとコムナ13では農業が盛んに行われていたが、1940年代に居住地区と変わっていった。
その後、コロンビアの他の地域から移ってきた来た人達に土地を売り、60、70年代にたくさんの違法な住居が建てられた。
また70年代から80年代前半にかけて、近くの農村部で起きた紛争から逃れて来た人たちが移住をしてきた。
その数、1500家族以上で新たなコミュニティーを設立していった。
彼らは知らない土地で特別な技術もなく、元から住んでいた地元民から侵略者として差別されていった。
そのため仕事もなく自分たちで作ったバラックのような建物に住み、電気を盗んで使用したりした。
それらのことがギャングにとって、彼らをドラッグ(コカイン)関連の働き手として取り込むのに都合が良い環境となった。
さらに悪いことに、80年代後半から90年代には、違法軍事組織(ゲリラ)などがこのエリアをコントロールしていった。
そして、違法軍が拡大しすぎて、これらの間で闘争が起き、そして殺人が横行していき、制御不能となった。
戦場のような状況が1年以上続き、世界で2番目に危険なエリアとなった。
2002年にAlvaro Uribeがコロンビアの大統領になって、10度の軍事介入が行われた。
最後に行われたのが2002年の10月で1500の人員と2機のヘリコプターと1台戦車が使用された。
その後、2年かけて街は一掃されていき、平和が訪れていった。
2006年に選出された市長になってから大規模な投資が行われ、2008年にケーブルカーが、2011年にエスカレーターが設置され今日に至る。
メデジンの中心街
メデジンは活気があって、街中には人が多く、お店もたくさんあった。
特にSan AntonioからParque Berrioの駅とその間の通りにはたくさんの飲食店、服、靴、アクセサリー、雑貨などが連なっている。
Parque Berrioの駅前の広場にはかなりの人がいた。
この広場にはコーヒーを売る女性たちがものすごく多かった。
観光客はほぼ見かけずローカルばかりだったように思われる。
その先のAntioquia公園には写真を撮っている観光客を少し見かけた。
夕方はメトロのPoblabo駅からの帰宅ラッシュがものすごく、尋常じゃない人が列を作っていた。
メデジンはあまり下調べをしなかったせいか、観光スポットが少なかったように思われた。
それよりも自分はローカルがどのような生活をしているのかがものすごく興味があってそれに集中していたような気がする。
メデジンでの食事。
ペルーでもそうだったが、アボカドとバナナが付いてくることが多かった。
時間があれば是非ともしたかったのが、ゴンドラに乗って展望台に行くこととNutibaraの丘に登ること。
メデジンの滞在は48時間くらいしかなかったのでしょうがないなとは思う。
次回は旅の最終目的地となるボゴタです。
一番、活気のある都市でした!